話し合うことことを強制されること辛いしかし元々はやりたい人間だった

 私は表現物に触れるのは好きでも、発信することが苦手だ。これを治そうとしているが、治す必要はあるのかとも考える。それは人間誰しも強制される必要はない。

 

 

 

 

 それは人間誰しも言葉を持って生きることは人間本来の営みだからとされている。なるほど、ここから考えれば当然に理解できる。反論という言論の自由を行使すると。ならば、人は社会での必要な発言はしないと人間生活というか、自分の暮らしもできないからこの限りでは前者の義務は果たさないといけないであろう。しかし、それ以上に行使させることは、「表現の自由」のパッケージの「思想・良心の自由」を侵害することにつながるのではないであろうか。「思想の自由市場論」(これは学者ではなく、アメリカの最高裁判事オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアが提唱した理論)は各人が思想的な表現を発信することで最良な真実へと到達し、その結果、公平な言論社会が形成されるという説。(これは裁判官が判決理由で説明したため、ある意味言い切りの表現。その点は考慮してほしい。)この論理をさも全てかのように説明することは反対である。むしろ、言論の自由は当然に守られてべきである。しかし「思想の自由市場論」にとられて人々に強制することはあってはならない。だからと言って人々が政治を語るなという論理付けにはつかってはならないというのが私の本心である。この論理はある意味苦役が伴うと評価できる。それはある人が政治のことでそれ以上わかりやすく表現できないのにその人に「もっとわかりやすくしろ!」と強制することは前者の説明にあたる。

近年、「メディア・リテラシー」という言葉が「市場」を賑せている。これは真実をマスコミが報道していない。ということへの対処法として言われたことである。確かに全てを批判するつもりはない。(私もメディアのごとの違いや事実と意見の違い、イテオロギーの見分け方)この点はありだと思う。しかしこれ以上になっている。これが全てと言われているようで社会や政治、経済や文化が安くなってしまうとも思える。だがこのような営みは当然人それぞれの価値観や思想、行動や経験がその人をその営みの中でその行動させている。これは、「メディア・リテラシー」だけで見たら気づくことはできない。

憲法では「表現の自由」が特に大事で司法試験や近年の司法権力の重要なことになっている。ある意味現代社会は高度情報化であるし、匿名で情報を流通できるから、そこに焦点当てることは重要であろう。しかしこれのみかと疑問がある。試験ではある意味問題のパターン化や資質を問うという「目的」からはこの分野に特化してもいいと思う。しかし司法の現場でこれが判断の決め手になったら事件当事者たちはやるせない気持ちになるだろう。だから事件の具体的な判断をすることは当然に必要である。

「アクティブ・ラーニング」これは民主主義で教育するということを実現させることにつながる。楽観的に見れば。

よく考えるとクラスの中で孤立する話し合いが苦手な生徒を置き去りにする。その生徒の「表現の自由」を奪ったということになる。

これでよいのか。また議論をさせる。これが気に入らないな

議論とは本来強制されてやるのではない。このことは最小限にとどめ私が教師なら

⚫︎まず、最初に先生の座学の授業で本日のテーマの内容を理解させる(押し付けるような指導ではなく、教師個人の客観的にみた自説で指導する。教科書をもっと深く読み解くことができるように)

⚫︎その後生徒たちに「話し合い」を問題形式つまり生徒が強制させるのはその瞬間のみにすることで生徒の負担を減らす。これは生徒の「表現の自由」を保障する観点からも重要である。

をする。こうしたらよいのでは。